OKI'S DIARY 2000
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このペ−ジはOKI自らが綴るコ−ナ−です。内容は随時更新されます。OKIが発信する生のメッセ−ジを感じて下さい。 感想や反響はBBSへの書き込みかファンメ−ルにてお願いします。 |
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#9■2000年2月25日 ■ 今から5年前、1995年の2月23日〜25日にかけて新宿ロフトで3DAYSをやった事がある。その夜、俺とSEIZIはさりげなく祝杯をあげた。小さくて大きな2つの記念日を祝うためだった。 ■『スピリチュアルライフ』に収録されている「青春の光と影」に出てくる"昔よく歌ったあの店"−広島のライブハウス「ウディストリ−ト」が閉店してしまったのは'94年の秋だった。店は紙屋町の電車通り沿い、市民球場まで歩いて5分ほどの街なかに位置していたが、オ−プン当初はもう少し離れた並木通りのはずれにあったので、この名前がつけられていた。(もう一軒の最近でもよく使う「ナミキジャンクション」もオ−プン当時は並木通りにあったので、その名前がついている。) ■そのウディストリ−トに俺達が初めて出演したのが、1985年の2月23日。阪神タイガ−スが優勝した年だから、もう15年前の事になる。いわゆるビ−ツのライブデビュ−。オリジナルはまだ3曲しかなく、カバ−を含めても演奏はまったくの素人レベル以下でしかなかったが、なぜだか俺には妙な確信めいたもの−"間違いない!やれるぞ!!"というような感覚−だけが残った日だった。ほんとに死ぬほど下手くそだったんだが。 ■その後の3ケ月程で「BEAT PARTY」や「アウトサイダ−」「空カラ爆弾」や「満足できない」などを書き、秋頃に「ヒロシマ」や「Feelin’ Groovy」、「BLUE HEAVEN」や「ひとりばっちのワルツ」なども出てきた頃には、狭い小屋とはいえ、ウディをワンマンで満杯にできるようになっていた。その頃にはもう、今に至るビ−ツのライブの原型もほぼできあがりつつあり、誰からともなく拳があがるようになり、うたうようになり、「アンコ−ル!アンコ−ル!」の手拍子ではなく「ビ−ツ!ビ−ツ!」と連呼されるのがあたり前のようになりはじめていた。その後'86年、'87年の活動を経て、メジャ−デビュ−の話がだいたいまとまった。'87年12月の大事なライブで、"広島を離れ東京に出ることにした"と、ファンに伝えた。ひとつ区切りがついた。 ■明けて1988年、昭和最後の年。俺達は東京で初めてワンマンのライブをやった。それが12年前の今日、2月25日の事だ。新宿ロフト。記憶、、、。敵陣に突っ込むような、アウェイで戦うような、、、そんな気分だっただろう。俺はとても怖い顔だった、と言われた。この日から、それまでも歌っていたある曲がずいぶん特別な輝きを持つようになった。"あと戻りはしない。この街でやっていきます"と伝え、自然に"大切な歌です"と紹介したその曲が「約束できない」だった。 ■もうひとつ強烈に覚えているのは、この日青梅街道が異常に混んでいた事。嘘のような話だが荻窪から新宿まで2時間もかかり、もちろん遅刻もしたが、おかげで"ゴト−ビ"という言葉があるのを知った。俺達はその後4月にインディ−ズ盤の『BEATNIK ROCKER』を出し、5月に上京し、11月にプロデビュ−する事になる。それから長い間、東京に住んで青梅街道は今も最もよく使う道だが、あそこまでヒドい目にあった事はない。サイドミラ−に西日をうける時、よく思い出す事がある。 ■小さくて大きな2つの記念日。俺達にとって、それぞれ第一ラウンド、第二ラウンドのゴングが鳴った日。俺とSEIZIはたぶん祝杯をあげながらこんな会話をしていたと思う。「次の10年もあっという間に過ぎそうじゃの−」、予想は的中。もう「次の10年」のうちの5年が経過してる。どうやらこの第二ラウンドはまだまだ終わりを告げるつもりはないらしい。 ■ P.S. 岩手出身のコウイチ君、あのソロライブはそんな事も相まって俺も良く覚えているんだよ。ところで仕事探しはその後どう?頑張れよ。 |